一言要約:阿佐田哲也の麻雀放浪記(漫画版)と色川武大のうらおもて人生録は是非読むべき。
阿佐田哲也と色川武大は同一人物の作家である。
色川武大の作家以前の経歴と言えば、戦後の混乱期にギャンブルの玄人(遊びではなくそれを専門にして生計を立てる人。ギャンブルの場合はイカサマも辞さない)として裏社会を生きたことで有名である。アウト・ローの社会で生き抜いてきた経験とナルコレプシーという奇病の罹患者ということも相まって、独特の人生観と深みのある魅力を備えた人物である。
人たらし的な側面が垣間見え、文壇関係だけでなくタモリ・井上陽水・立川談志など、多くの芸能関係や音楽関係者と交友関係も知られている。
先述したように色川武大と阿佐田哲也は同一人物であるが、これは各名義で書いてきた小説の質が異なるからである。
簡単に言うと純文学は色川武大名義で、大衆文学は阿佐田哲也名義なのだ。
まずは阿佐田哲也の即面から話をしよう。
阿佐田哲也(色川武大)が真剣師として糊口をしのいでいたことは先述したが、主な飯の食い扶持は、チンチロ(さいころ賭博)と賭け麻雀であった。
そのアウトロー時代の経験をもとに、賭け麻雀勝負を小説にした『麻雀放浪記』がある。
実体験を多分に盛り込んだ裏社会の賭け麻雀の勝負の熱さが多くの読者を引き寄せた名作である。
かつてのあるプロ麻雀士は「麻雀放浪記が麻雀小説をただの娯楽から文学にまで押し上げた」とまで語っていた。
この小説の影響で社会的な麻雀ブームが起こり、麻雀が裏路地でひそかに行われる卑しい遊びから大人の娯楽へと大きく変貌していった。
この作品は小説から映画・漫画へと多数のメディアミックスがなされた。
映画は1984年で漫画版は1997年の作品が有名である。
漫画版に関しては、いわゆる超絶画力というよりは少し特徴のある絵という感じだが、その画力が妙にハマる。また戦後のドヤ街や当時の状況を視覚でもって知ることができるのでお勧めできる作品だ。
一方純文学の色川武大の側面も非常に興味深い。
ナルコレプシーに依拠する幻覚や父との関係における屈託を描いた「狂人日記」、「生家へ」 「百(永日)」はノンフィクション部分を多分に備えつつも非常に評価の高い作品(純文学)として有名である。
色川文学を特徴づける「屈託」というワードが彼の性格を以下に形作っているかを読み取ることができる。
阿佐田哲也と色川武大の両側面から様々な魅力が垣間見えるが、そんな両側面を一度に教えてくれる作品がある。
それが晩年に著されたエッセイ「うらおもて人生録」である。
若者に向けて著された作品であり、真剣勝負の博打に裏付けられた阿佐田哲也の人生観と、生来の屈託やナルコレプシーに由来する人を愛するという色川武大の人生哲学の両面を余すことなく知ることができる。
文章の口調も、人を引き寄せるような軽妙で穏やかな語り口から、親父の説教的な感じではなく、おばあちゃんの知恵袋的な優しい感じで教えが記されており、まさに視野を広くしてくれると思わせる一冊である。
Amazon の書評などを見るとよく、「色川先生の言っていることがおかげで肩の力が抜けた」とか、「そんなにまでして勝つ人生を歩まなくていいんだと分かり安心した」といった意見を多数見るのだが、著者の言いたいことはむしろ逆なのではないかとも思う。
この本はむしろ人生という勝負の中で勝ちを拾っていくために如何にするかというまさにサバイバル的な一冊であり、本書に出てくる「九勝六敗」「滅びながら向上する」「一病息災」などの阿佐田哲也と色川武大のセオリーも、いかに「生き抜いていくか」というテーマを刻々と記しているように感じさせる。
人生に悩んでいる人や、どうしても勝負に勝たなくてはいけない人、人生に道が見えてこない人などはこれを読むことで、何らかの指針が見えてくることだろう。
しかも即効的に。
色川武大の言いたいことを、単に手短にまとめられた複数のセオリーを短文で見るだけでは、水面の汚れを掬っているに過ぎず、言葉の本当の意味を理解することは難しいように感じるのでそこだけは要注意。
本書を実際に手に取って、よく内容を吟味しながら読み進めていくと血肉として消化できる気がする。
正に「棒のように受け取る」のではなく、「眺めるということは体験をオミットするということだから、それこそよくよく深く眺めなければいけない」ということを実感させてくれる。
以下は各作品のURL紹介ページ
・麻雀放浪記(映画版)↓
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・麻雀放浪記(漫画版・紙媒体・中古・新刊・紙媒体も可)↓
・うらおもて人生録(書籍)↓
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・その他の本記事に出てきた色川武大の書籍:↓
https://www.oninkun.com/the-others-books-written-by-takehiro-irokawa/
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